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愛犬と歩けば孤独の風に吹かれる

愛犬と歩けば孤独の風に吹かれる
作家 切塗よしを

2024/02/10

私事ですが、勤め人を辞めて8年が経過しました。サラリーマン時代は、常に周囲に人がいて、公務と私用が渾然とした会話を交わしていたものです。毎週のように何らかの飲み会があり、話し相手を探す苦労は皆無でした。

しかし、もっぱら自宅に籠もる自営業の身となると、話し相手は妻しかいません。また、人の顔の覚えが悪い私は、近所でもほとんど知り合いがいないのです。その隙間を埋めてくれるのが愛犬ななみです。

愛犬の方が顔が広い

サラリーマンを辞めたから寂しいのかといえば必ずしもそうではありません。自営業となった今となっては、よくも毎日満員電車に揺られて通ったものだと不思議にすら思います。通勤途上、勤務先の幹部に会うと、顔色を窺いながら、挨拶のひとつも交わさないと、たちまち不適格者の烙印をおされかねません。それが今では、誰を無視しようが、人から悪印象を持たれようが、なんの支障もないのですから、こんな気楽なことはありません。

そんな性格の私は、近所を歩いてもまず知り合いと出会うことはありません。ところが、愛犬ななみと散歩に出るとたちまち状況が変わります。しばしば見知らぬ人から呼び止められるのです。

高齢婦人は、「あっ、ななみちゃん」とまるで旧知の友のように犬に話しかけてきます。下校中の小学生にいたっては、「おっ、ななみだ」と誰かが言おうものなら、たちまち数名に囲まれ、スキンシップが始まります。日頃から愛想の悪い私は、それらの人物と会話を交わすわけでもないので、相手方ももっぱらななみとのコミュニケーションに専念します。その間の私はまさに孤独の風に吹きさらされた透明人間さながらです。自宅周辺での知名度は断然ななみの方が上なのです。

愛犬から教えられること

6歳のときに我が家にやってきたななみは、あと数カ月で18歳になります。つまり、干支が一回りする期間、ずっと一緒だったことになります。この間、私はいろいろなことをななみから教わりました。

たとえば散歩です。まだ元気に走り回っていた頃の話ですが、約30分の散歩を終えて、自宅でハーネスを外すと、たちまちリビングを全力で走り回るのです。まだ俊敏に動いていた頃ですから、障害物と衝突することはありません。

散歩中はもちろん、ドッグランにいってもまるで全力疾走をすることのないななみが、散歩を終えた後に限り全力疾走するのは、謎としかいいようのない行動でした。まるで「帰宅する喜びを味わうために散歩という苦行をしたのだ」と言わんばかりの喜びようで室内を何周も周回するのですから。

「散歩の苦行」と「帰宅の喜び」の二律背反を抱えている様子は、まったく理解できませんでしたが、そんな様子を毎日見ているうちに気がついたことがあります。

考えてみれば、私もまるで苦行のように嫌々ながらサラリーマンとして勤めていたのです。しかし、退職した翌朝は、たとえようのないほどの開放感がありました。まさに狂喜乱舞の心境でした。

つまり、ななみの散歩と同じで、私も「会社を辞めるために働いていた」ということだったのです。長い散歩を終えた私は、今も開放された気分ですが、残念ながら、退職の翌朝に感じた極上の喜びを味わうことは二度とありません。

やる気があればなんでもできる女優犬

愛犬ななみの顔をみていると、とても思慮深く感じて、世の中のことが何でも分かっているかのようです。しかし、現実は、何ひとつ飼主の言うことを聞き入れません。保護犬だったこともあり、基本的なしつけも最初から諦めていました。他人に吠え立てることもないので、しつけをしていなくても、大きな支障がなかったことも理由のひとつです。

夫婦の会話で、もっぱら私がななみのアフレコをするのですが、呑気に家で過ごしている姿を見ていると、つい「私は、やる気になればなんでもできるのよ」と本人に成り代わって語ってしまいます。そうです、何もしない唯一の原因は「やる気」がないだけなのです。

以前、前足を引き摺って散歩することがあったので、気になって動物病院で診てもらったことがあります。これといった原因も見つからなかったのですが、そのとき獣医師から「柴犬は演技をする」と言った説明を受けました。

当時の私は、抱っこを拒絶するななみを無事に診察台に載せられるだろうかということで頭がいっぱいで、話の中身を斟酌する余裕がなかったので、医師の言葉を額面どおり受け取り、「ああ、そんなものですか」と返事をしました。

数日経って、そのときの話を頭の中でリピートして気がつきました。医師は「柴犬は芝居犬だから演技をする」と駄洒落を言ったのです。笑いで返さなかったことが、今でも申し訳なく思います。

足の痛みは、その後親指の爪が皮膚に食い込んで居るのが原因とわかり、爪を切ることで解決しました。老犬となった今は、全面的に身体を預けてきますので、定期的にチェックをして、伸びた爪を切るようにしています。




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作家 切塗よしを (きりぬりよしを)

作家、フリーライター、文芸同人誌『あるかいど』発行人
短編小説集『けったいな犬やっかいな猫』(ことの葉ブックス)で、保護犬と暮らす青年の生き様を描く。
現在、シニア犬の柴犬、ななみと暮らす。

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